松山重車輌工業・北陸重機工業・堀川工機の関係について


松山重車輌工業(旧社名:松山自動車工業)、北陸重機工業、堀川工機は各社とも軌道モータカーの名門メーカーであるが、前2社は創業から現在まで新潟市を拠点としており、堀川工機も一時期は新潟市に工場を構えていた。

日本において数少ない軌道モータカーのメーカーが、いち地方都市に集中して拠点を置いている事は不自然であり、この3社は何等かの関係があるものと趣味者から度々指摘されてきた。今回は3社の関係と歴史を調査したので本記事にて解説する。

■北村製作所と松山自動車工業の関係
新潟市中心部を流れる信濃川の川幅はかつて700m程あったが、大正11(1922)年に大河内分水が完成すると信濃川の水量が大幅に減少し、川幅が200m程となったため、新潟県は昭和初頭に旧信濃川河川敷を造成し平地化した。1)江戸時代より流作場(りゅうさくば)と呼ばれていたこの地域は、新潟合同自動車(→新潟交通)の本社兼バス車庫が昭和10(1935)年に、鉄道省新潟鉄道局が昭和11(1936)年に設置されたのを皮切りとして、鉄道および自動車関連企業が多く集まるようになった。2)おそらく造成地故に土地の広大さが目を付けられたものと思われる。


昭和37(1962)年の新潟市流作場住宅地図
新潟交通本社の向かいの敷地に北村製作所・松山自動車工業・北誠自動車工業が立地している。
トヨタや日産等の自動車関連企業が周辺に多く見えるのもお判りだろうか。
『最新新潟市住宅明細図 昭和37年版』,東交出版社,(1963) p78より引用

北村製作所はその典型例である。昭和11(1936)年に新潟市西堀前四番町で北村治作が創業した北村製作所は、新潟交通からバスボデー修理の仕事を貰う事を目的に、昭和12(1937)年に新潟交通本社の向かいである流作場2507番地に移転した。3)以来新潟交通と関係を深め1980年代までバスボデーメーカーとして成長を遂げる事になる。

流作場時代の北村製作所広告 『新潟県年鑑 昭和28年版』,新潟日報社,(1953) p11より引用

昭和25(1950)年の北村製作所会社概況。取締役に松山誠一郎が就任している。
『新潟県年鑑 昭和26年版』,新潟日報社,(1950) p82より引用

北村の移転と同時期の昭和15(1940)年、北村の工場の真裏に松山誠一郎によって創業されたのが松山自動車工業であった。4)この地で創業された経緯は資料が無く不明であるが、社名が示す通り元々は自動車修理および販売業であり、創業から60年代頃までの同社はスズキ自動車製軽自動車の販売やフォークリフトの販売など自動車関連業務を多数抱えていた。一方で近隣に所在した鉄道省新潟鉄道局との結びつきが強かったようで、内燃車輌修理などを通じて関係を深めていった。5)昭和21年に貨物型モータカー用逆転機を製作し新潟鉄道局へ納入6)、やがて貨物型モータカー用自動転車装置の開発を成功させ、昭和20年代後半には国鉄へ軌道モータカーの納入を開始している。

流作場時代の松山自動車工業の広告。(左) 自動車関連業務の多さに注目。
松山自動車工業と同じ頁に記載されている北誠自動車工業の広告(右)

『新潟県下越佐渡版新潟地区電話番号簿 昭和38年12月1日現在』,信越電気通信局,(1963) p268より引用

北村製作所と松山自動車工業の関係について、経緯が不明であるが親密な関係を築いていた事が伺える。北村治作は昭和26(1951)年より松山自動車工業の取締役に就任し、同年より松山誠一郎も北村製作所の取締役に就任している。7)両社はさらに合弁会社と思われる北誠自動車工業を両社敷地内に設立し、オート三輪やフォークリフトの販売業を行っている。8)

北村治作(左)と松山誠一郎(右)肖像
(左)は北村(1986) p2、(右)は松山重車輌工業カタログ(平成初頭発行?)より引用。

北村製作所は工場が手狭になった事を理由に昭和38(1963)年に新潟市出来島へ移転するが、翌年6月16日に新潟地震が発生し、流作場一帯は液状化による浸水被害を被った。新潟交通は車庫が全面的に浸水するなど大きな被害を受け、この復旧を流作場に集約していた車庫機能を市内各地へ分散させる形で行った。流作場の車庫跡地は同社の手で商業地として再開発する事になり、昭和48(1973)年に万代シテイがオープンして以来、この地は新潟市の新市街地として発展を遂げ、かつての工業地帯は見る影が無くなった。9)


浸水した新潟交通車庫 新潟交通(1965) p196より引用

松山自動車工業は新潟地震後の昭和39(1964)年12月に新潟市山木戸1387番地へ移転したが、おそらく新潟交通同様に地震被害を受け、復旧せず郊外への移転を行ったものと思われる。昭和36(1961)年には松山誠一郎がスズキ新潟販売を設立10)する等して自動車関連業務も徐々に松山自動車工業から分離させ、昭和47(1972)年に社名を松山重車輌工業へ改めている。

■松山自動車工業と堀川工機の関係
堀川工機の創業者は堀川吉雄という国鉄出身の技師であり、昭和25(1950)年の時点で工作局機械課と施設局保線課を兼務していた。11)軌道モータカーに精通していた様で、『新線路』等業界誌で記事を執筆している他、当時の有力メーカーであった高田機工を出版元として軌道モータカーの解説書の出版も行っている。

国鉄時代の堀川吉雄が出版した解説書(『貨物型モータカーの機構と其の取扱法』,高田機工株式会社,(1950))

昭和34(1959)年に堀川工機が設立され、堀川吉雄は社長に就任しているが、創業当初の堀川工機は自前で工場を持っておらず、車両製造を他社に外注し納入や仲介を行う形態であったと思われる。堀川工機の外注先として松山自動車工業との結びつきが強かった様で、昭和30(1955)年より堀川吉雄は松山自動車工業の取締役に就任しており、東銀座のビル内にあった堀川工機の事務所は昭和35(1960)年に近隣へ移転した松山自動車工業東京事務所の跡地に置かれていた。12)当時は国鉄への納品業者に国鉄OBが天下りする等して籍を入れる事例があり、堀川工機と松山自動車工業の関係もその一例であると言える。13)


昭和34(1959)年の松山自動車工業会社概況。取締役に北村治作と堀川吉雄が就任している。
『新潟県年鑑 昭和35年版』,新潟日報社,(1959) p358より引用

堀川吉雄は昭和35(1960)年まで松山自動車工業の取締役を務めているが、その後堀川工機は自社工場を所有するようになり、昭和40(1965)年頃に新潟市榎町39番地に新潟工場を、昭和45(1970)年頃に埼玉県草加市に整備工場を開設し、昭和43(1968)年頃に新潟工場を山木戸へ移転させた後、昭和46(1971)年頃に新潟市から撤退し工場を草加へ集約させている。



『交通技術』誌掲載の堀川工機の広告。(上)は昭和43(1968)年10月(281)号、(中)は昭和45(1970)年10月(304)号、(下)は昭和46(1971)年10月(320)号より引用。堀川工機各工場の変遷が分かる。

■堀川工機と北陸重機工業の関係
北陸重機工業の創業者である霜鳥勝徳は松山自動車工業出身の人物である。14)
昭和28(1953)年に松山自動車工業に入社し、昭和36(1961)~39(1964)年にかけて同社の取締役を務めた後、昭和40(1965)年に北陸重機工業を設立し新潟市榎町に本社を置いた。
先述した堀川工機新潟工場と同じ町内の住所であり、当時の住宅地図を見ると堀川工機の建物は記載がなく、北越企業㈱という会社と同じ建物を北陸重機工業が共用している。一方で当時の電話帳には堀川工機新潟工場と北陸重機工業本社が同じ番号で案内されており、昭和43(1968)年に北陸重機工業が新潟市山木戸1490番地(当時)の現在地へ移転すると、堀川工機新潟工場も同じ住所・電話番号を名乗るようになる。


昭和42(1967)年の新潟市榎町周辺住宅地図。地図中央付近の丁字路に面した土地に、北越企業㈱と同居する形で北陸重機工業の建物が記載されているが、堀川工機新潟工場の記載は見当たらない。
『最新新潟市全域住宅明細図 昭和42年版』 ,東交出版社,(1967) p116より引用


昭和42(1967)年(左)と昭和45(1970)年(右)の電話帳。左記時点で北陸重機工業と堀川工機新潟工場は異なる電話番号が案内されているが、北陸重機工業の電話番号は上記『交通技術』誌記載の堀川工機新潟工場の電話番号と同一である。右記時点では電話帳でも同一の電話番号が案内されている。(左)は『新潟県電話番号簿 新潟版 昭和42年6月1日現在』,信越電気通信局,(1967) p88、(右)は『新潟県新潟版 職業別電話番号簿 昭和45年12月1日現在』,信越電気通信局,(1970) p126より引用。

上記の事実から、堀川工機新潟工場は北陸重機工業の工場を共用か間借りしており、創業当初の北陸重機工業は堀川工機の下請け先だった事が推測できる。先述した通り堀川工機は昭和46(1971)年頃新潟から撤退し、同じ頃の電話帳から堀川工機の番号の記載が無くなっている。

■まとめ:新潟市と軌道モータカー
松山重車輌工業・北陸重機工業・堀川工機の三社は、上記の経緯よりかつては密接した関係性を抱えており、昭和40年代においては新潟市山木戸に三社とも拠点を置いた時期すらあった。しかし周知の通り、その後の三社は軌道モータカーのメーカーとして各々が競合する関係に成長した。平成年間に新潟鐵工所と富士重工業の後継として新潟トランシスが設立されて以降、新潟市周辺は軌道モータカーの生産拠点として益々隆盛し、実にNICHIJO以外の全社がこの地にルーツを持つに至った。

日本初の軌道モータカーは大正年に鉄道省が甲府保線事務所に導入した個体であるが、それ以前に現在の信越本線の前身で新潟市を拠点とした北越鉄道の線路上で軌道モータカーを見たとの証言が存在する。15)あくまで証言であり裏付ける記録が未発見であるが、仮にこれが事実なら、新潟市と軌道モータカーには運命的な歴史を感じて仕方がないのである。

■引用文献
1)『新潟交通20年史』,新潟交通株式会社,(1965)
2)『新潟交通50年の歩み 総集編』,月刊新潟交通,394号,新潟交通株式会社,(1993.10)
3)『新潟県人名鑑』,新潟日報事業社,(1980)
4)北村治作『追憶』,北村治作,(1986)
5)『新潟歴史双書9 萬代橋と新潟』,新潟市,(2005)
6)『社長に聞く!第45回 鍛えられた品質で各種鉄道車両を製造 北陸重機工業株式会社(新潟市)』,ホクギンMonthly,(2015.5)
7)奥村正敏『保線を支えるサプライヤー 松山重車輌工業株式会社』,新線路,69巻11号,鉄道現業社,(2015.11)
8)松山重車輌工業株式会社『企業情報』http://www.mjk21.co.jp/kigyo/gaiyo.html(2022/07/31)

■脚注
1)新潟市(2005)p49-51
2)新潟市(2005)p69
3)北村治作(きたむらじさく 1910-1989) 北村(1986)より経歴を抜粋すると、北村治吉(中北車体工作所創業者)の息子として生誕し、昭和2(1926)年旧制新潟中学を卒業。東京の板金工場や父の職場に勤務した後に独立し北村製作所を創業している。晩年まで北村製作所会長および松山重車輌工業取締役を務めた。
4)松山誠一郎(まつやませいいちろう 1905-199?) 新潟県年鑑では平成8(1996)年版より人名録に記載が無くなるため、平成7(1995)年頃が没年と推測される。晩年まで松山重車輌工業会長および北村製作所取締役を務めた。
5)奥村正敏(2015)
6)『新線路』9巻10号(1955.10)p18掲載の松山自動車工業広告には、昭和21(1946)年に新潟鉄道局津川保線区所属のモータカーに取付とある。なお同じ頃の松山自動車工業カタログ(くりはら田園鉄道公園所有)には昭和19(1944)年納入とある。
7)『新潟県年鑑 昭和27年版』,新潟日報社,(1951) p82およびp125
8)社名は北村治作と松山誠一郎の頭文字から取ったと推測する。
9)新潟交通(1993)
10)スズキ新潟販売『企業情報』https://www.suzuki.co.jp/dealer/suzuki-niigata/corporate/(2022/7/31)
11)『貨物型モータカーの機構と其の取扱法』,高田機工株式会社,(1950) 巻頭序文
12)『交通技術』昭和35(1960)年8月(174)号掲載の松山自動車工業広告に、それまでの東京事務所(中央区銀座東2-7)を新住所へ移転する案内が記載されているが、同誌昭和38(1963)年6月(211)号掲載の堀川工機広告には本社を先述の住所で案内している。
13)佐藤鉄工株式会社社史編纂委員会編『佐藤鉄工85年史』佐藤鉄工,(1996)では、同社前身の佐藤工業が貨車移動機製造へ参入する際国鉄から天下りの技師を受け入れて便宜を図ってもらった旨の記述がある。
14)霜鳥勝徳(しもとりかつのり 1926- ) 新潟日報事業社(1980)p446より経歴を抜粋すると、新井市(現妙高市)飛田新田で生誕、旧制高田中学および旧制都立工業専門学校卒業後、昭和23(1948)年東京鑿岩機工業㈱に入社、松山自動車工業入社後の経歴は先述。
15)三善威『国産モーター・カー試験成績に就いて』,第四回改良後援会記録,鉄道省公務局,(1929)