新潟地震で活躍した保守用車たち

(写真:地震発生数日後と思われる新潟駅構内の様子。崩落した笹口跨線橋と同橋が直撃し現地解体されたキハユニ17-2、TMC100Bに牽引されているマチサ・スタンダードと電マルが見える。
※「温故知新潟」管理人のビバ松様より許可を得た上で、ご祖父様が撮影された写真を掲載しました。



崩落した昭和大橋。奥に見える黒煙は臨港町にあった昭和石油新潟製油所の石油貯蔵タンク火災現場である。
新潟日報社『新潟地震の記録』,(1964)p13より引用

昭和39(1964)年6月16日13時1分、新潟県粟島沖を震源に発生した新潟地震はM7.5を記録し、県都新潟市を中心に壊滅的な被害を及ぼした。上記写真の通り、崩落した昭和大橋や燃え盛る昭和石油のタンク等の生々しい被害映像をご覧になった方も多いだろう。
この地震では鉄道施設にも多くの被害も受けたが、新潟地震の復旧に際し、日本国有鉄道と陸上自衛隊、そして彼らが持ち込んだ保守用車たちの活躍があった事は余り知られていない。
筆者は第2回保守用車鉄研究発表会にて「軌陸ジープと新潟地震」の題で本件を発表したが、これに加筆の上で本記事にて紹介させていただきたいと思う。

■新潟地震における国鉄と自衛隊の動き

焼島駅で復旧作業中の自衛隊員。右側に見える「鉄道隊 習志野」の幟は第101建設隊員が士気を鼓舞するために持参したウエスに書いたもの。野崎(1964)より引用

国鉄では発生当日より線路巡検と応急復旧を行い、翌日未明には被害が甚大であった新潟駅周辺と、越後線関屋~新潟間、羽越本線勝木~小岩川および出戸~西目間を除いた全線で運行を再開した。1)復旧に際しては新潟支社のみならず、関東・東北・中部・関西の各支社から12,000名の作業員が派遣されている。2)
新潟地区復旧作業については、6月17日に東京・高崎、19日に東京・高崎・千葉・水戸、同日に金沢・長野・静岡・名古屋の各鉄道管理局から派遣された作業員を載せた救援列車が続々と手配され新潟入りし2)3)、6月18日より復旧作業を開始させている。
この時東京局では支援物資として田端機械軌道区に配備されていたマチサ・スタンダードを1台用意し現地入りさせた。2)おそらく先述の救援列車に積み込まれたものと思われるが、現地に配備されていた電マル2)4)と2台体制で道床搗き固め作業を行っている。


新潟地震における陸上自衛隊の作戦行動範囲。なお関屋浄水場と信濃川の間の水道管復旧作業である「関屋作戦」は地図の範囲から外れたため省略した。
新潟県(1965)図Ⅳ-4.2.1および新潟県地震水害対策本部(1964)p75掲載の図を参考に作成

一方、陸上自衛隊は地震発生当日より市内各所にて復旧作業に従事していた。市内で展開された7つの作戦のうち、新潟駅・焼島駅構内の鉄道復旧作業については鉄路作戦と命名され、第1施設団傘下の第107施設大隊、本作戦中一時的に第107施設大隊の指揮下となった5)第101建設隊と第316地区施設隊の総勢291名が6)、6月18日より先述の国鉄からの作業員と合流の上で作戦が開始された。作戦内容は新潟駅構内の復旧作業従事であるが、第101建設隊については23日より第12戦車大隊と合流の上で焼島駅の復旧作業にも従事している。5)


新潟駅構内でトロを牽引中の軌陸ジープ。伊藤東作『幻の鉄道部隊消えた第一〇一建設隊』,かや書房,(1991)』,p60より引用

この内、第101建設隊は昭和35(1960)~41(1966)年の6年間のみ存在した自衛隊史上唯一の鉄道部隊である。
地震発生日、同隊は千葉県習志野市津田沼に所在した駐屯地にて演習中7)であったが、翌17日に新潟への派遣命令が下り同日夕方に車両7台で出発、国道18号線を走破の上で翌18日未明に新潟入りし、19日より作戦に参加している。5)
この時陸路で新潟にやってきた車両のうち1台は、昭和37(1962)年に国鉄と共同開発された軌陸ジープである。新潟到着後に鉄輪に履き替えた上で復旧作業に従事し、同車にとって最初で最後の実践投入であった。

■新潟駅周辺復旧作業
新潟地区において凄惨であったのが新潟駅と周辺の貨物駅であった。何れも地盤の隆起や液状化、浸水等の被害を受け、新潟駅構内においては構内に架橋されていた笹口跨線橋が崩落、直下を入換走行中の列車に直撃し、信越本線側からの列車進入が不可能となってしまっていた。


こう上高さが大きすぎてジャッキが使用できず、丸太を用いてこう上げ中の東京局作業員 「復興の一翼をになって-復旧応援隊の記録-」(1964)より引用

地震発生翌日から信越本線新潟~亀田間は運休となり、同区間および新津~新潟間は自動車局が長野原・宇都宮・西那須野・土浦・新橋の各自動車営業所から手配した代行バスの運行が開始されている8)9)が、一刻も早い復旧のため国鉄と自衛隊員の努力がこの間も続けられた。波打った道床には60cmものこう上が必要となり、国鉄側で対応できるジャッキの用意がなく丸太を用いてレールを打ち上げする始末であった。9)
自衛隊第101建設隊側でも正規のジャッキが使用できず、念の為持参していたストロークの大きい予備のジャッキを使用せざるを得なかった。1)バラスも不足していたが笹口跨線橋によって本線が封じられているため工臨を用意できず、自衛隊が手配したダンプカー9台による砂利輸送によってどうにか凌いでいる。3)
6月19日には笹口跨線橋の手前に笹口仮乗降場が設置され、同乗降場まで信越本線と白新線の列車運行が再開した。10)
21日には笹口跨線橋が撤去され工臨の構内引き入れに成功し、24日早朝にはついに6・7番線の仮復旧が完了2)、同日5時43分には1番列車である急行「越後」が国鉄および自衛隊作業員の万歳により出迎えられた。5)

仮復旧した新潟駅7番線に入線した復旧一番列車と万歳する国鉄と自衛隊の作業員。「施設大隊」と書かれた幟にも注目。 新潟日報社「新潟地震の記録」(1964)p79より引用
なお23日をもって自衛隊側の鉄路作戦は終了し、第101建設隊も24日17時に新潟を出発し無事帰還を果たした。5)この時国鉄から授与された感謝状が、今なお朝霞駐屯地の資料室に掲げられているという。

■羽越本線・越後線の復旧

羽越本線出戸~西目間の路盤崩落現場。新潟地震30年事業実行委員会(1994)p118 写真-4.6.5より引用

新潟駅が仮復旧を果たした後も羽越本線および越後線は不通となっていた。羽越本線については路盤の崩落やトンネルの変位等の被害を受け、東北支社管轄の出戸~西目間は900名を動員し6月20日に復旧2)、新潟支社管轄の区間についても6月18日に東北支社から110名の作業員が派遣された他、盛岡局から10両の鉄製トロが供与される等して作業が進み府屋~小岩川間は25日に復旧した。2)勝木~府屋間の八幡山トンネルの擁壁崩落現場についても、秋田・仙台局から100名の作業員を載せた救援列車が到着する9)等の支援が続けられた後29日に復旧し、羽越本線は全線復旧を見た。2)
路盤の崩落や信濃川橋脚の傾斜等の被害を受け、最後まで作業が続けられていた越後線についても、関屋~白山間が7月7日、白山~新潟間が7月12日に復旧し11)、新潟地震による不通区間はこれにて全線復旧となっている。

■おわりにかえて
新潟市の近現代史において新潟地震は重大な出来事であり、保守用車の世界においても影響を与えていた事は以前の記事で述べたが、実際の被害状況についても興味があり調べ始めたものである。新幹線すらない時代にこれほど迅速に全国から応援が集まるものとは思っておらず、当時はまだ充分に普及していない保守用車すら現地入りさせている事については驚くばかりである。
近年では東日本大震災の際に京浜急行電鉄がJR東日本にEM30を貸し出したケース等が有名であるが、いつの時代においても施設維持修理に欠かせない保守用車による支援はたいへん心強い事であろう。今後とも当DBでは保守用車による災害支援について積極的に記録してゆきたい所存である。

■参考文献
1)野崎晋一「災害派遣日誌」,新鉄,No52・53,国鉄新潟支社総務部厚生課,(1964)
2)「自衛隊員の手記」,新鉄,No52・53,国鉄新潟支社総務部厚生課,(1964)
3)「復興の一翼をになって-復旧応援隊の記録-」,新鉄,No52・53,国鉄新潟支社総務部厚生課,(1964)
3)新潟県地震水害対策本部「新潟地震と7.7水害の状況 」,(1964)
4)施設教育編集部「新潟地震と被害の概要」,施設教育,17巻8号,(1964.8)
5)松本喜一「嗚呼!新潟の7日間」,施設教育,17巻8号,(1964.8)
6)日本国有鉄道新潟支社「新潟地震災害記録」,(1964)
7)新潟地震30年事業実行委員会「新潟地震と防災技術 」,(1994)
8)新潟県「新潟地震の記録 地震の発生と応急対策」,(1965)

■脚注
1)新潟地震30年事業実行委員会(1994)p123
2)施設教育編集部(1964.8)
3)松本(1964.8)
4)当時新潟局に配備されていた電マルはMTT-4,14,15の3機種であるが、復旧作業中を捉えた写真を見る限りMTT-14か15の様である。
5)野崎(1964)
6)新潟県地震水害対策本部(1964)p70~71掲載の表によると、人数内訳は第107施設大隊215名、第101建設隊44名、第316地区施設隊30名。第101建設隊は、野崎(1964)によると当初出動予定が無かったものが急遽出動が決まったため到着が18日となり、翌19日より参加している。また第12戦車大隊は部隊の一部が参加したため鉄路作戦への参加人数は不明。なお施設教育編集部(1964.8)によると鉄路作戦に参加した自衛隊員の総数は2132名と記述があり参加人数に7倍近い差があるが、新潟県地震水害対策本部(1964)と施設教育編集部(1964.8)のどちらが正確なのかは不明である。
7)「自衛隊員の手記」(1964)によると、地震発生当日の第101建設隊は島松専用線補修工事のための演習中であった。函館本線島松駅構内から分岐していた陸上自衛隊島松駐屯地への専用線の事と思われる。
8)日本国有鉄道新潟支社(1964)p32
9)「復興の一翼をになって-復旧応援隊の記録-」(1964)
10)新潟市役所「新潟地震誌」,(1964)p290
11)日本国有鉄道新潟支社(1964)p36