(写真:トロを従えてモータカーと同様に使用されている本機種。ピン連結器が標準装備されており、キャブ屋根上には貨物型モータカーと同等品と思われる作業灯も確認できる。)
東洋工業が製作した本機種のカタログ表紙。同時期の同社はダンプカーやバキュームカー等、D1500の特装車仕様のカタログを多数製作しており、販促に意欲的であった事が伺える。
■概要
日本国有鉄道施設局保線課が昭和34(1959)年度技術研究課題として開発した軌陸トラックである。開発当時は「軌陸車」という呼称が一般的ではなく、国鉄においては「道路兼用モータカー」や「軌道トラック」と呼称していた。
この当時の国鉄は、モータカーの配備数が多い割に稼働時間が少ない事を問題視していた。線路上しか走行できない一般的なモータカーは数駅程度の短距離でも列車待避等で移動に時間が掛かかるため、どうしても移動できる範囲が少なくなってしまい、モータカーの配備数が多くならざるを得ないのである。また道路輸送した資材の積み替え作業も非効率であり、現場まで極力道路を使用して迅速に移動できる本機種の構想が生まれた。1)この他、災害時線路を用いず移動できる点や、市販の自動車をベースとする事による経済性の良さも期待されており、村山(1960.8)では最終的に軌道モータカーと貨物自動車を本機種で置き換える構想も言及していた。
軌道走行方式については下記4種類が検討されたが、①については鉄輪と道路走行輪への交換の手間が生じる事、②と③については当時の市販車のトレッドだと道路走行輪の内側にしか狭軌鉄輪を装備できず動力伝達が難しい事を主な理由として不採用となり、自走できる鉄輪を道路走行輪と別個に備えた④が採用された。2)現代においても広く普及している方式であるが、国内における採用は史上初であり、踏切等から転車台を用いて載線する方式も同時に採用されたため、現代の軌陸車の技術的な始祖ともいえるエポックメイキングな機種であると言える。
本機種の開発時に検討された軌道走行方式 村山(1965)図-1より引用
本機種の開発において、国鉄施設局保線課の村山煕3)が数多くの文献を遺しており、開発における中心人物であったと推測できる。開発に際し国内の自動車メーカー5社に検討を打診したところ、東洋工業(現・マツダ)のみが開発に意欲を見せた事から、同社との共同開発となった。4)現代において軌陸装置の開発・架装は架装メーカーの担当となる事が多く、ベースシャーシのメーカーが開発に参加する事例は極めて珍しい。この当時の同社はオート三輪のメーカーから本格的自動車メーカーへの脱皮を図っていた時期であり、本プロジェクトへの開発に意欲的であった理由もこの点にあると考えられる。ベースシャーシは同社初の4輪トラックであるロンパーを源流とする積載量2tモデルであるD1500(DUA12)とする事になった。5)
昭和35(1960)年に試作車が完成し、同年5月30日および31日に山陽本線八本松駅で各種試験を行った後、6)同年10月にJRS規格が制定され7)、翌年より全国配備が開始されている。
■構造解説
(上)本機種の全体図。(下)運転席部機器配置図。本記事で述べた項目のみ抜粋すると、⑲が転車台昇降レバー、⑳が軌道輪昇降レバー、㉑がハンドルロックボタン、㉕が駐車ブレーキ、㉖が駆動輪切替レバーである。
両図とも中央鉄道学園三島分教所(1964)p403(図5-3)および)p444(図5-34)より引用。
・動力系統
駆動する鉄輪と道路走行輪を別個に装備し、変速機からパワーテイクオフ8)を介して各々へ出力軸が接続されている。
現代の軌陸車では鉄輪を油圧動力としているため、出力軸が別個に存在する動力装置は特徴的である。動力の切替は運転席に装備された駆動輪切替レバーで行うが、軌道走行に関してのみパワーテイクオフに逆転歯車が装備されているため、前進と同じく等速での後退が可能である。
ブレーキは油圧フットブレーキと駐車ブレーキを装備し、動力切替レバーの操作と連動してゴムタイヤまたは鉄輪のみに制動が掛かる。また軌道走行時は道路走行用ステアリングハンドル操作が不要となるので、ハンドルロックボタンが装備されている。
(上)動力系統図。中央鉄道学園三島分教所(1964)p408(図5-4)より引用。
(下)駆動輪切替レバー。軌道走行のみ、前後進とも等速で走行が可能である。なお同レバーの更に下に見えるレバーは駐車ブレーキレバーである。東洋工業カタログより引用。
・軌陸装置
道路走行輪トレッド内に鉄輪が格納されており、WB間には載線用転車台を装備している。両者とも油圧にて下降および格納を行い、変速機の左側に搭載されたポンプ動力伝達装置8)から回転を取り出し、オイルポンプを駆動させ動力源としている。運転席内のポンプ動力切替レバーで油圧ポンプの駆動を始動させた後、軌道輪昇降レバーおよび転車台昇降レバーで昇降操作を行う。
転車台は開発当時貨物型モータカーに標準装備されていたものと同等であり、本来は方向転換用であった同装置を載線装置へと応用した例としては最古級である。9)但し本機種の場合格納時に十分な地上高を確保する目的から、貨物型モータカー搭載のものよりストロークが短く設計されており、転車台の下降時には格納式の補助脚を展開させる事で、短いストロークでも接地を可能としている。10)
(上)転車台下降状態。接地している部分は折り畳み式の補助脚である。
(下)転車台および軌道輪昇降レバー。
両画像とも東洋工業カタログより引用。
この他の各種諸元は下記の通り。
・主要寸法
項目 | 道路走行 | 軌道走行 | |
大きさ | 全長 | 約4,690mm | 同左 |
全幅 | 約1,690mm | 同左 | |
全高 | 約1,945mm | 約1,995mm | |
輪間距離 | 前輪1,398mm 後輪1,470mm |
||
軸間距離 | 2,800mm | 約2,600mm | |
バックゲージ | 988~994mm | ||
荷台高さ(空車時) | 940mm | 約990mm | |
荷台 | 全長 | 2,610mm | 同左 |
全幅 | 1,570mm | 同左 | |
全高 | 370mm | 同左 | |
タイヤ | 前輪 | 6.00-16-8PLT | 400φ×W115mm |
後輪 | 7.50-16-14PLT | 450φ×W115mm |
中央鉄道学園三島分教所(1964)p405(図5-3)より引用。
・軌道走行性能
線路こう配 | 積載荷重(kg) | けん引荷重(kg) | 速度(km/h) | |
単車荷重積載時 | 荷重積載および 荷重けん引時 |
|||
水平線 | 2,000 | 7,500 | 50以上 | 45以上 |
10/1000 | 〃 | 〃 | 45以上 | 35以上 |
25/1000 | 〃 | 〃 | 40以上 | 25以上 |
中央鉄道学園三島分教所(1964)p404(図5-1)より引用。
・道路走行性能
項目 | 性能 |
最大積載荷重 | 1,500kg |
最高速度 | 80km/h(水平線最大負荷時) |
最小回転半径 | 5,500mm |
登坂能力 | 1/6 |
乗車定員 | 3名 |
車両重量 | 2,775kg |
中央鉄道学園三島分教所(1964)p405(図5-2)より引用。
・軌陸装置諸元
項目 | 機能 | |
転車装置 | 車体挙揚方式 | 油圧式 |
旋回方式 | 手動式 | |
使用油圧 | 約30kg/cm2 | |
油圧シリンダー数 内径×行径 |
2-101.6×290 | |
挙揚重量 | 4,800kg | |
軌道 走行輪 昇降装置 |
車輪の挙揚方式 | 油圧式 |
油圧シリンダー数 内径×行径 |
前輪 2-50φ×230 後輪 2-70φ×135 |
|
使用油圧 | 約15kg/cm2 | |
挙揚時の車輪の高さ | 約140mm(路面上より) | |
油圧ポンプ | 型式 | 歯車式 |
使用油圧 | 30kg/cm2 最大70kg/cm2 |
中央鉄道学園三島分教所(1964)p406(図5-4)より引用。
■道路兼用モータカーのその後
施設局保線課(1966)によると、昭和41(1966)年3月時点で下記58両の配備が確認されている。村山煕は配備数は約60両だと回想している4)事を考慮すると、施設局保線課(1966)における最終導入年である昭和40(1965)年まで導入が続いたと考えるのが自然だろう。なお、この年の導入分は門司局導入の1台を除いて機関出力が60.5Kwである事から、D1500の出力増強仕様であるD2000(DVA12)がベースシャーシであると思われる。
財産番号 | 取得日 | 所属局 | 財産番号 | 取得日 | 所属局 |
2132 | 1961/3/31 | 盛岡 | 7054 | 1965/1/30 | 名古屋 |
2135 | 1962/2/8 | 盛岡 | 7055 | 1965/2/5 | 名古屋 |
3545 | 1961/3/31 | 新潟 | 7741 | 1961/3/31 | 金沢 |
3548 | 1962/3/31 | 新潟 | 8171 | 1961/3/29 | 大阪 |
3551 | 1962/12/8 | 新潟 | 8172 | 1961/3/26 | 大阪 |
3552 | 1962/12/8 | 新潟 | 8173 | 1961/10/20 | 大阪 |
4381 | 1961/3/31 | 高崎 | 8174 | 1961/10/12 | 大阪 |
4382 | 1963/9/2 | 高崎 | 8175 | 1961/10/20 | 大阪 |
4383 | 1963/9/2 | 高崎 | 8176 | 1963/12/3 | 大阪 |
4527 | 1962/3/31 | 水戸 | 8177 | 1964/1/20 | 大阪 |
4528 | 1962/3/31 | 水戸 | 8178 | 1964/1/20 | 大阪 |
5046 | 1962/3/31 | 千葉 | 8529 | 1962/3/28 | 天王寺 |
5546 | 1963/3/30 | 東京 | 8530 | 1962/3/不詳 | 天王寺 |
5549 | 1961/3/29 | 東京 | 9701 | 1961/3/30 | 米子 |
5550 | 1961/3/31 | 東京 | 10051 | 1962/2/21 | 岡山 |
5552 | 1962/2/14 | 東京 | 10052 | 1962/2/1 | 岡山 |
5555 | 1962/3/31 | 東京 | 10750 | 1961/11/30 | 四国 |
5557 | 1963/1/31 | 東京 | 10751 | 1961/11/30 | 四国 |
5559 | 1963/3/30 | 東京 | 1105511) | 1960/12/20 | 中国 |
5566 | 1965/3/20 | 東京 | 11056 | 1961/11/不詳 | 中国 |
6023 | 1961/3/31 | 長野 | 11057 | 1962/3/28 | 中国 |
6700 | 1961/3/31 | 静岡 | 11058 | 1962/11/16 | 中国 |
6701 | 1961/3/31 | 静岡 | 11582 | 1961/3/10 | 門司 |
6702 | 1961/3/31 | 静岡 | 11583 | 1964/8/15 | 門司 |
7044 | 1961/3/28 | 名古屋 | 11584 | 1965/9/30 | 門司 |
7045 | 1961/3/28 | 名古屋 | 11586 | 1961/3/31 | 門司 |
7046 | 1961/10/16 | 名古屋 | 12151 | 1961/12/1 | 大分 |
7047 | 1961/10/16 | 名古屋 | 12571 | 1961/12/1 | 熊本 |
7053 | 1965/1/30 | 名古屋 | 13071 | 1962/3/26 | 鹿児島 |
施設局保線課(1966)より引用。(太字は機関出力60.5Kw仕様車。)
但し配備後の使用状況については、期待していた程思わしくなかった模様で、昭和40(1965)年にD1500/D2000の生産が終了した後も後継機種の開発は行われなかった。
本機種の実用化がそれほど進まなかった理由について、田嶋(2022)では、当時の道路状況が劣悪であり、道路兼用としたところでメリットを生かせる場面が少なかった点を挙げている。田嶋(2022)は、渡辺正雄『軌道トラックを活用して』,新線路,16巻6号,(1962.6)を典拠に米子局へ配備された個体の使用状況について言及しているが、当時の鳥取県内は国道でも穴だらけで速度を上げての走行は困難であり、悪路走行時によりシートの裏面がキャブレターに接触したり、シートの固定ボルトが全て破断したりと過酷な環境であったという。
開発から約15年後の昭和51(1976)年時点で現役個体はわずか8両まで減り12)、恐らくJR各社へ継承されないまま全廃を迎えたものと思われる。先述の通り現代の軌陸車の技術的な原型となった本機種であるが、技術史的には一旦途絶えてしまい、軌陸車の爆発的普及は1990年代以降となった。
但し先述した約60両もの大量配備は史上初であり、軌陸車という車種の普及には大きく貢献した機種であるといえる。興味深い事例であると、四国地方においては本機種が全廃された後の1990年代になっても、軌陸車の事を「ロンパー」と呼ぶ方言が存在しており13)、本機種の残したインパクトを伺い知る事ができる。
予讃線松山電化時の施工方法について説明した文献から引用した図であるが、延線作業に使用する軌陸高所作業車の事を「ロンパ」と表記している。
井上祥三・吉岡拡・藤井業雄・森泰夫『トンネル箇所の電車線路設備施工』,鉄道電気,44巻3号(1991.3)図4より引用
■参考文献
1)東洋工業カタログ『マツダ 道路兼用軌道モーターカー』
2)中央鉄道学園三島分教所『保線重機械の構造と取扱』,交友社,(1964)
3)日本国有鉄道施設局保線課『保線用機械一覧表』,(1966)
4)村山煕『道路兼用型軌道モーターカー(兼用モーターカー)』,鉄道線路,8巻7号,(1960.7)
5)村山煕『道路兼用モータカー』,新線路,14巻8号,(1960.8)
6)東洋工業株式会社『道路兼用型軌道モーターカー』,JREA,3巻10号,(1960.10)
7)田嶋玲『道路兼用型軌道モータカー』,廃線系鉄道考古学 vol.4,(2022)
■脚注
1)村山(1960.8)p20の要約
2)村山(1960.7)p274-275の要約
3)村山煕(むらやま ひかる)。『新潟県年鑑 昭和49年版』,新潟日報社,(1973) p614記載の経歴を抜粋すると、大正13(1924)年石川県生まれ、東大卒業後国鉄へ入社し、国鉄本社施設局保線課長を経て昭和48(1973)年時点で新潟鉄道管理局長。時期不明だが後に本社施設局長も歴任する。
4)村山煕『保線機械化の歴史 「軌道更新法への挑戦」(続編)』,日本鉄道施設協会誌,37巻12号,(1999.12)
5)マツダ・ロンパーは昭和33(1958)年に空冷エンジン搭載で発売されたが、翌年のモデルチェンジで水冷エンジン搭載に変更されると同時に「ロンパー」という愛称も廃止され、モデル名であるD1100(機関出力46ps 昭和37年まで)/D1500(同60ps)/D2000(同81ps 昭和37年から)での呼称となった。なおマツダはモデル名と型式が一致しておらず、本記事ではD1500(DUA12)の様に型式をカッコ書きで記載する。先述の通りわずか1年で廃止となった「ロンパー」という愛称だが、その独特のボディフォルムから同じボディを持つD1100/D1500/D2000も含めて「ロンパー」と呼ぶ者も多い。
6)村山(1960.8)
7)日本保線協会『保線年報 1961』p39(1961)
8)中央鉄道学園三島分教所(1964)における表記の原文ママ。この”パワーテイクオフ”とは変速機から回転を取り出す装置という意味での用法であり、油圧動力の発生源ではない。後述の通り油圧動力は変速機~油圧ポンプ間に搭載された”ポンプ動力伝達装置”を発生源としているが、これこそ現代において一般的な”パワーテイクオフ”である。
9)本機種より2年早い昭和33(1958)年頃、国鉄では「架線保守車」という三菱・ジープをベースシャーシとする軌陸車を実用化していた。架線保守車は鉄輪とゴムタイヤを交換するタイプの軌陸車で、タイヤ交換のため車体を持ち上げる目的で簡易的ながら転車台を装備していた。確認できる限りこちらの方が転車台を搭載した最古の軌陸車である。杉本芳香・中村弘夫『能率のよい架線保守車』,新線路,12巻1号(1958.1)に写真掲載あり。
10)東洋工業株式会社(1960)
11)昭和35(1960)年取得の個体はこの1両のみであり、時期から考えて試作車の可能性が高い。
12)石原一比古『保線機械のデータブック(主要諸元表)』,鉄道線路,24巻10号(1976.10)別表。同表によるとこの時点で東京南、岡山、門司局に各2両、東京西と名古屋に各1両が残存していた。
13)確認できた限り、井上祥三・吉岡拡・藤井業雄・森泰夫『トンネル箇所の電車線路設備施工』,鉄道電気,44巻3号 および 北条宏『瀬戸大橋線の機力作業』,鉄道と電気技術,5巻10号(1994.9)に同表記が記載されている。