MTT-1

(写真:MTT-1A  片山吉信様所蔵写真)



『新線路』, 12巻1号, (1958年1月)裏表紙に掲載されたMTT-1Aの広告。操作および待避の簡便さが謳われている。

■概要
本邦における国産マルタイの歴史は終戦直後に遡る。

昭和20(1945)年8月、GHQは戦争で荒廃した鉄道の復旧に全力を尽くす様運輸省1)に指示を行ったが、この細目の中に保線作業の機械化を推進する必要がある事が明記されており、同年12月には運輸省内に「保線作業機械化委員会」が発足した。各種作業の機械化を検討した結果、最も重労働で経験が必要な道床搗き固め作業を優先して機械化する事に決定し、ハンドタイタンパーの導入および国産化が開始された。2)

芝浦製作所では戦時中陸軍向けに内燃発電機を製造していたが、終戦時にはこれの部品としてエンジンの在庫を抱えていた他2)、小型モーターの在庫も多くあった。3)同じ頃、東芝の関連会社である東京芝浦共同工業で取締役を務めており、元鉄道省工作局長であった紀伊壽次4)が、芝浦製作所の在庫品をハンドタイタンパーに使用する事を発案し、同社へ国産ハンドタイタンパー開発の話が持ち込まれたわけである。2)3)

昭和22(1947)年3月に芝浦製作所は初の国産ハンドタイタンパーであるTT-A1を製作し、電源用発電機と共に運輸省へ納入された。TT-1Aは米国・ジャクソン社製電気式ハンドタイタンパーを参考としており、実際にジャクソン社のカタログを取り寄せた上で製作されているが、日本人の体格に合う様寸法や重量が変更されている。これ以降改良を重ねながら芝浦製作所製ハンドタイタンパーは生産が継続していった。2)3)


道床搗き固め作業に使用されている芝浦製ハンドタイタンパー。引用元より開発当時から20年が経過した60年代中頃の撮影と思われるが、この時点でも生産されており現役で使用されていた。湯本幸丸『写真解説 保線用機械』,交友社,(1967)p13より引用

一方、昭和28(1953)年には初のマルチプルタイタンパーとしてマチサ・スタンダードが国鉄へ導入され、2年ほど運用した後にマルタイも国産化する事となった。この時国産マルタイの開発に当たったのが国鉄施設局保線課長の小野木次郎5)と芝浦製作所技師の堀越一三6)である。堀越は昭和20(1945)年まで運輸通信省施設局保修課長を務めた国鉄OBであり、昭和25(1950)年に芝浦製作所へ技術顧問として入社し、以来同社にて保線機械の開発を行っていた。ハンドタイタンパーは電源用発電機を貨車に載せて運用されていたが、列車が接近した際の待避が大変であったため、国産マルタイは小型軽量設計を念頭として製作され、小野木も堀越に対し”列車が来たらパッと取り外せるもの”とする事を要望している。2)3)7)


小野木次郎(左)と堀越一三(右)肖像
『座談会・先輩と語る 保線技術進歩の足跡をふりかえって』,交通技術,27巻8号,(1972年8月)p22およびp24より引用

こうして製作された国産初にして芝浦製作所初のマルタイは昭和32(1957)年に完成し、MTT-1Aと命名された。2)
構造は離線が容易な様、フレームにハンドタイタンパーを8本取り付けただけの簡便なものであった。従って自走機能は無く回送はモータカーによる牽引で枕木間の移動は手押しであったが、タイタンパー8本分を1人で操作できるという点ではマチサ・スタンダードに遜色は無く画期的であった。2)8)
諸元は確認できる限りを下記に示す。

全長×全幅×全高 3.5m×2.2m×不明2)
総重量 2,500kg2)8)
原動機 型式 詳細不明(トヨタR型?)9)
ガソリン8)
定格出力 42ps/3,600rpm8)
3相交流
発電機
詳細不明
タイピング
装置
起振用
電動機
詳細不明
ツール数 16本8)
上下昇降用
電動機
詳細不明
走行装置 走行用
電動機
無し(モータカーによる牽引)2)8)
制動装置 詳細不明
枕木間の
移動
手押し2)8)

本機種は完成後に国鉄関係者へ披露され2)、中央本線水道橋駅付近で性能試験も行われている。3)但し試作機という扱いであった様で、結局国鉄へは納入されず、国鉄への納入開始は後継機種のMTT-2からとなった。製作両数も不明であるがおそらく1両きりであったと思われる。

■参考文献
1)株式会社芝浦製作所『30年のあゆみ』,ダイヤモンド社,(1969)
2)芝浦製作所社史編纂委員会『50年のあゆみ』,芝浦製作所,(1989)
3)石原一比古 『電マルの生いたち』,新線路,32巻4号,(1978年4月)
4)『保線技術の源流を探る 工学としての保線―堀越一三さんと語る』,鉄道線路,26巻4号,(1978年4月)

■脚注
1)鉄道省の後身。昭和18(1943)年に逓信省と鉄道省が合併し運輸通信省が成立した後、昭和20(1945)年5月旧逓信省が分離され運輸省へ改組され、昭和24(1949)年に国有鉄道事業が日本国有鉄道として分離する。
2)芝浦製作所(1989)p31-33およびp64-65
3)鉄道線路(1978年4月)
4)紀伊壽次(きい じゅじ) 明治38(1905)年茨城県出身。昭和11(1936)年より鉄道省施設局長、昭和15(1940)年より東京芝浦共同工業専務取締役、昭和24(1949)年より近畿車輌社長(略歴はダイヤモンド社編集局『私の顔 現代社長アルバム 第4集』,ダイヤモンド社,(1956)p30-31より引用)
5)小野木次郎(おのぎじろう) 明治41(1908)年~平成5(1993)年10月8日。東京帝大卒後鉄道省へ入省し昭和27(1942)年3月より施設局保線課長(後に施設局長)。施設局保線課長在任時にマチサ・スタンダードの導入に関わり保線作業の機械化に尽力し、国鉄退官後は日本保線機械株式会社を設立し社長に就任する。晩年は「保線の神様」の異名で慕われた人物である。(略歴は『保線の神様 小野木次郎氏逝く』,日本鉄道施設協会誌,31巻12号,(1993年12月)p66より引用)
6)堀越一三(ほりこし いちぞう) 明治32(1899)年~昭和61(1986)年10月1日。大正14(1925)年鉄道省入省、昭和17(1942)年より施設局保修課長、昭和20(1945)年より鉄道技術研究所第2部長、昭和25(1950)年より芝浦製作所顧問。(略歴は鉄道線路(1978年4月)より引用)なお『<フォーラム>鉄道経営と線路保守』,運輸と経済 ,52巻2号,(1992年2月)という座談会形式の記事において、司会の伊能忠敏が堀越一三を”戦後はマルチプル・タイタンパーを芝浦製作所でつくることに情熱を傾けた人”として紹介している。
7)芝浦製作所(1969)p63
8)石原(1978)
9)エンジン型式が分かる文献が未発見だが、定格出力42ps/3,600rpmのガソリンエンジンは後継機のMTT-2が搭載するトヨタR型エンジンと諸元が共通する。